瀬戸(立場)「千貫堤(せんがんづつみ)」って何?!

「千貫堤(せんがんづつみ)」とは、大井川の氾濫から田中藩領の村々を守るために江戸時代初期に瀬戸の立場の東側に築かれた堤防です。慶長9(1604)年、寛永4(1627)年に起きた大洪水によりこの地域一帯が甚大な被害を受けたことから、寛永12年に田中藩主となった水野忠善が幕命として堤防の築造に取り掛かりました。
当時、瀬戸の立場の周辺には、いくつかの小丘陵が島状に点在しており、それらの小丘陵を結ぶように堤防が造られました。堤防は主に、瀬戸の立場の北側にあった瀬戸山(現在は消滅)と南側にある八幡山(岩城山)を結ぶ全長270mのものと、八幡山の西にあった藤五郎山(現在は消滅)とその南側にある本宮山(現・正泉寺山)を結ぶ全長150mもの、さらに本宮山と八幡山を結ぶ全長110mのものの3つから成っていました。いずれも幅は32m、高さは3.6mほどと推測され、千貫(一貫は一文銭千枚)もの莫大な費用がかかったことから「千貫堤」との名称がつけられたと伝えられています。

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残念ながら、明治以降の鉄道の敷設や、田畑の開墾、戦後の宅地化によりその大部分は姿を消してしまい、現在はJR東海道線の北側に長さ65m、幅約30mの部分が残されているだけとなりました。
残された千貫堤の場所には、「千貫堤」やこの地域に古くから伝わる名物「瀬戸の染飯」について学べる『千貫堤・瀬戸染飯伝承館』が建てられ、地元の保存会により、貴重な史跡の保存や伝承が行われています。

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