慶長13(1613)年に完成したため池(蓮華寺池)は、五十海・市部の両村の農業に欠かせない大切なものとなりました。しかし、年貢の取り立てが厳しさを増す中、池の土地を所有する若王子村の中には、池を埋め立てて耕作地を増やし、収穫量を上げたいと考える者も現れ、池の埋め立てを巡ってたびたび村同士の論争が起きました。
中でも、明治2~3年にかけて起きた、増産開墾を目的とした池の埋め立て命令に端を発した争いは、現在の蓮華寺池の存続に大きく影響したものとして知られています。
明治2(1869)年、静岡藩の領主で、藩の水利や開墾などを指揮する役職にあった松岡萬により、耕地を拡大し、収穫量を増やすことを目的とした池の埋め立て計画の決定の命令が下されました。これを受け、村の農業にため池(蓮華寺池)の水が不可欠であった五十海・市部村の人々は、何とか計画を中止してもらおうと村の名主(庄屋)らを領主・松岡の所に送り、必死に説得に当たりました。領主の命令に逆らうことなど許されない時代に、異を唱えることは命がけの行為でしたが、何度かの嘆願の末、ようやく計画の中止が決定され、蓮華寺池は埋め立ての危機を免れたのです。
命の危険を顧みず池を守った村の名主たちの勇気と、既に決定していた計画を撤回した領主・松岡萬の英断がなければ、今の蓮華寺池公園は存在しなかったと思うと、とても感慨深いものがあります。
公園内(花しょうぶ園奥の山裾)には池を守った名主たちを称える顕彰碑が建てられています。園路から少し奥まった場所にありますが、ご来園の際はぜひお立ち寄りいただき、その功績に思いを寄せてみてください。
若王子村絵図(藤枝小学校所蔵)
顕彰碑は花しょうぶ園奥の山裾に建てられています。